理事長あいさつ

理事長・学院長篠﨑 孝子
「コン、コン。消灯の時刻はとうに過ぎてるよ。早く寝なさい。」
「はい、すみません。でも皆と同じ努力じゃ私、とっても追いつけないんです。」
「それは、あなたが、この学校に相応しくないからでしょう。お国へ帰ったら?」
1929年のある深夜、アメリカミシガン州にあるホープカレッジの寮での出来ごと。宿題がこなしきれず、火影が外に漏れないようにと毛布を被って、毎晩必死に勉強していた 17歳の少女は、後の山手学院中学校・高等学校創始者のひとり江守節子先生です。舎監の先生の言葉があまりにもショックで、彼女は涙も出ません。
" 途中で日本に帰るなんて、そんなこと、絶対に出来ない。娘をここで勉強させるために、両親はどんなに苦労していることか。それに弟たちだって、みんな素直に我慢してくれてるじゃないか … "
江守先生が渡米して間もなく、世界中に深刻な金融恐慌が起こりました。ずっと後になって、私は父からこんな思い出話を聞いたことがあります。
「お姉さんがアメリカへ行くときは 1ドルが 2円だったのに、あれよあれよという間に 4円になってしまった。おまけに夕方になると人通りはパッタリ途絶えて、店の売り上げも最低。毎晩家には借金取りが待っている。銀時計とか " カネメ " のものは皆売ったけれど、アメリカへ送金も難しくなった。あの時は本気でダメだと思ったよ。」
悪いことは重なります。当時アメリカ人の対日感情は最低だったし、その上"移民法"の縛りもあって、節子先生は自力で学費を稼ぐことも出来ませんでした。
ところが、血の滲むような彼女の努力を、大学はちゃんと見ていました。進退きわまった少女 " Setsu " を特待生にし、授業料を免除して下さったんです! 1934年、5年間の勉強を全うし、見違えるように立派になった " Setsu " は日本に帰ってきました。
" 両親・家族、そしてあの時アメリカでお世話になった人々のご恩を、何とかお返ししたい。"
本校の創設にはそんな「願い」が込められています。
豊かな時代を生きる若い皆さんには、想像もつかない体験かもしれません。では今の若者たちには、悩みや苦しみがないのでしょうか?そんなことはないはずです。今の時代だからこその悩みや苦しみを、皆さん抱えているはずです。山手の仲間たちと協力して、そこから逃げず、真っ正面から受けて立ち歩んでいける、そんな人材の育成にこれからも尽力したいと考えております。